反省して!

私は、 いかなる理由があろうと、
その人の地位や肩書きに合わせて、
話の聞き方を変える人間が
嫌いです。


私は大小構わず先人の生み出した叡智を、
その叡智の構造も把握しようとせず、
振りかざす、丸乗りする人間が嫌いです。

深いところまで派生するとすなわち
私は、達観した人も嫌いです。

どんな叡智にも必ず伸び代があり、
その叡智に新たな叡智が枝葉のごとく継ぎ足され、
私たちの知りうる叡智となっているのです。


我々が真の意味で達観を許されるのはいつか。
その叡智の継ぎ足しが完遂した時ではないでしょうか。

すなわち、我々の認知しうるあらゆる発現を、
言語化もしくは実体化したときではないでしょうか。

それより前に発生する達観は、
あくまで証明への道筋となりうる程度の
不完全かつファジィな概念を
認知した程度に過ぎないのではないでしょうか。

現時点における達観は、肝心の説明すべき部分で
自分の胸に手を当てて考えてみてくださいを繰り返し、
論理的飛躍を内包したまま、堂々最後にQ.E.D.と記している
それ以上でもそれ以下でもないことに相違ありません。
なりようがありません。

誰一人この究極の叡智の完成に到達してませんからね。
まぁ、そもそもそんなんに到達してたら、
それが明文化されて記されていたら、
心理学もAIなんてとっくに完成してるでしょっていう。

そんな完成してすらいない命題に対して、
わかるとか、自分は正しいとかのたまうのは
叡智そのものや、叡智を生み出した数多の賢者に対する
厚顔無恥甚だしい冒涜行為と言わず何というべきでしょうか。

まだ誰一人、その究極の領域に到達していません。

究極の地の果てへの登頂者が現れるその瞬間に
必ず起きる激震が顕現していないからです。

しかし、その奇蹟に近づけるのであれば、
私は枝にでも葉にでも成ろう。

なれるものなら。
そもそも成らずしては触れることすら叶いませんから。
あちらの言葉を借りればアストラルに。

私はアストラルの中核に触れたい。

無粋極まりない行為は承知の上ながら、
仮にそのクオリアに名前を持たせるとすれば…

Another Mother

とでも呼んでみましょうか。



〜続きはそのうち〜